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Richie Blackmoreと私。その2
入試、高校青春生活期
銘々「忙しぅてたまらん〜!!」
◇とにかく普通科対象の勉強は勘弁してよであったので、工業系を志望。技術的には理工系な人間だし、理数科はばっりち。入試用に国語と社会に頭を向けるが「もっぱら暗記に従事する勉学」はつまらん。やはり勉強ってのは、創意工夫、創造とかがあって自己表現を完結するんやぁとか、訳の分からんことばっかりいってたな。でも無事県立工業を通過。バンドメンバー全員岡山まで電車通学やぁ。ククク・・・都会の空気が吸える。笑いが止まらんかった。
下校はダッシュで駅まで走れば、早めの電車に間に合って4時半には(ドラムの(せーさん)家)へ到着する。納屋の2階を練習場に使ってたのである。
DPの曲は色々とチャレンジはしたけど、相変わらずスピードキングやブラックナイト以外はモノにならない。Vocalが誰も出来ないんだ。それにあの雰囲気には到底かなわないし・・・マウンテンやフリーの曲をやってた。フリーは末期に山内テツがBassと言うことで応援してたんだ。海外日本人アーティストとして頑張ってたもんね。今でもハートブレーカーとウイッシングウェルは好きな曲だよ。
◇ジュリーのコンサートがあった。メンバーは何を思ったか、計画的に?開演6時間前くらいまでに楽屋裏に集合・・(^_^;)
器材の搬入を狙ってたんだ。トラックが着いたところでリーダーが 「あのぉ・・僕ら岡山でバンドやってます。井上尭之さんのファンなんです。是非プロのバンドの搬入を手伝わせて下さい。」なんてことを言った。 あえてジュリー等と言わなかったのがよかったのかな・・「えっ? ぁぁいいよ」って手伝わせてもらったんだ。ステージへの搬入と配置セッティングが終わった後、井上バンドは続々と登場してきて興奮したなぁ。ボーヤと何やら話してる。つまみ出されるんだろうなと待ち構えていた僕らに「居ればいいよ」って声くれたんだ。ラッキー(^。^)楽屋で待たされてた。そこへ井上さんがやってきたんだ。ブルースのことや国内外のアーティストの話、色々してくれた。山内テツさんもスゲーベーシストなんだよって。。もちろんディープパープルにもついて。田園コロシアムのライブにもね。ディープパープルとRitchie、早熟にして素晴らしいアーティストだとも。今度火が点くとも言ってたね。まさにそうだったんだけど、とにかく僕らは舞い上がっていてさ・・・途中ジュリーがその部屋を覗いて・・お茶目に愛想してくれた。「ブルースから始めると何か見えてくるかもね」という雰囲気があったんだ。そして僕らのバンドはこの後「ブルースバンド」へと変貌していくんだ。ボーヤの人たちとは、これが切っ掛けで顔なじみになった。その後も毎年??こちらへ来るたびに入れてくれた(^.^)。
◇DPカバーバンドとしての活躍というと、岡山の烏城祭りに出る機会があってね、天守閣前のステージでやったなぁ。おじいさんや子どもの前で SpeedKingとか・・その日は「アリス」も出たんだけど(谷村しんじとか堀内たかおの3人グループ、しってる?)無名なのか宣伝不足なのかあまり人集まらなかったね。もう一年後に来ればよかったのに。キャンプ場でライブやらせてもらったり、お給金も飯出るだけで嬉しかった。◇さまに成らない形だけのカバーロックより「こっちがルーツなんか?」でブルースバンドに変貌した我がバンドは、CCRとか黒人系、BB KINGとか・・やり始める。すげー変わりようで・・・・個々のメンバーはRock聞いてたんだけどね・・僕はといえばRitchieばっかり追いかけやってさ、マシンヘッド、ファイヤーボール、そして永遠の名作「Live IN japan」に涙してたんだ。Live IN japanはね、初回プレスには35ミリのライブネガがオマケについてたんだよ・。しってた?でもね、相変わらずプレーヤーだったんだよ。。我が家は。ちょうどその頃さ、母が熱心にレコードばかり聞いては「他の不良」をしていないので「テンマヤ」でコロンビアのステレオを月賦で買ってくれたんだ。もうサイコー!だったよ。4万円くらいだったけど、小遣い20ヶ月分なんだ。すげーアイテムなのさ。
リーダーのAceToneアンプは自分に下がって来た。リーダーがアンプを買ったんだよ。これでやっと恥ずかしい思いをせず人前に立てる。そんな中、YAMAHAの8.8Rock-dayっていうコンクールと出会うんだな。これは以降、毎年常連になるんだ。初回でいきなり県予選を突破してしまった。
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コンテスト用に2曲を繰り返し練習するのは参ったけど、いろんな仲間と出会ういい機会だったな。姫路の中四国大会ではサイドギターとしての自分がギター個人賞を貰うのも快挙だったみたいだし、上田正樹とサウスtoサウスの上田さんはゲストででてたしね・・あの正樹(キー坊)さんだよ。沖縄の「紫」が本土初上陸したのも8.8の本大会ゲストだったね。たしか。DeepPurpleやってるんで参ったよ。。実際はね。僕のもんだと思ってたからね。イアンはそんな声じゃないでしょ!リッチーの音はちょっとそうじゃないって・・・いちゃもんばっかりつけてたな。
◇バイトしました。高校の夏、冬には全部バイトに終始してました。みんなの金でPAの月賦を払っていたのと、自分も1年生の秋にはあの!!!Marshallを買ったのです。セット番号は忘れましたが50wの2段スタックのやつです。ブルースをやってても成りきってました。コピーモデルですがフェルナンデスのストラトも買い借金地獄でした。アマチュアバンドの合同コンサートでは、BBキングやる反面、アンコールは「Highway Star」をリクエストされてました。少しは様になってたのかな?バンドポリシーの不可解な時代でした。夏のキャンプ場まわりでは酔っ払いの「演歌リクエスト」を二郎さんが「寺内」でノしてました。
◇そんな高校生生活中での思い出というと、まず、1年生のときに発売された「DP Live in Japan」でしょう。現在でも究極のライブアルバムとして、数々と再版をされてきたこのアルバムは今聞いても色褪せてないですよね。初版のアルバムとリアルタイムな時空を共有できたのは幸運でした。オマケに付いてきたLive35mmネガフィルムは紛失してしまいましたが、インターネット上で同じショットを見つけることができました。3年間の間にこのレコードは擦り減って聞けなくなり、再購入した覚えがあります。現在手持ちのやつです。CDでの再版時には勿論永久保存版だぁということでこっちもGETしましたが、先般初来日の全セットが3枚組で出まして、初来日のLive関係が増えたなぁ。でも、ファンなら当然の事。みんな持ってるよね。
ストラトであのズ太とい音は信じられませんです。ハイ。Marshallを自分のものにしてからも同じ音はしませんでした。個人的にも Child in time練習、結構やりました。
何かと問題になる「紫の象徴」ですが、私はこのアルバムの音調好きです。師匠本人は最悪とか論じてますし辞める気だったので、やる気も無しってのが見え見え・・・ってのは後になってからそう聞こえた覚えが有ります。後の Rainbow登場迄は気が付かなかったんだけど、第2期のDeep Purpleというバンドはメンバーの 1+1+1+1+1=が5(100%)じゃないんですね、6にも7にも成ってた気がするんです。Rainbowはというと、Ritchieが約80%でその他メンバーで20%受け持ち、その上その20%が入れ替わるもんだからパワー不足な時が「評論家の餌食」になってた。う〜ん解りますぅ??
で、その Rainbowが在学中に登場するわけだけど、レコード店から一番近い友達の家で聞いたな。「そぉかあ!こんなんやりたかったんだ!、ふぇ〜!」16世紀とか バビロン、羊、虹、なんだか暗いぞぉ、そんな世界。今までの雑誌からの情報が自分の中でインスパイヤし、音となって繋がりました。
そしてRainbow2枚目のアルバムは卒業してからでした。ドラマティックなB面2曲は当然ですが、ペイシー以外に私が「おやおや?」とコージーをドラマーと受け入れたアルバムでもあります。(^。^) 他のメンバーも「Ritchieとやった」アーティストとして、Rainbowからメジャーになっていったのではないでしょうか。皿洗いデビットもそうだけど・・・・
閑話休題:
その1−中学2年生のとき、模型を作っていてカッターナイフで左薬指を第一関節から先の神経を切っていたんで、かなり無理がありました。この指は今でも痺れていますが、Ritchieが居なかったら、ここまで普通に動くようになったかどうか?と思う今日このごろです。弦への感触が無いのですから、知らないうちに押え過ぎで血だらけだったりしてました。今では第二間接辺りの骨が感じてくれてます。
その2:私は28歳で結婚したのですが、女房はRainbow活動中、某航空会社の寮で Rainbow以降を聞いていたんです。スターゲイザーには泣かされたそうで、ヘッドフォンしてはボロボロ泣いてるので同僚がえらく心配したそうな。婚約中には全然音楽の話等しなかったので、引越しの日から同じレコードが一杯並ぶので笑えました。(^。^) いやぁ盛り上がる々・・・
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●作者の怠慢で一部の英語スペル表記がカタカナおよび半角等で記述されております。懸命な読者諸氏におかれましては、英文スペルに置き換えてお読みくださるようお願い申し上げます。 |
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ここが最後の行です。