

Richie Blackmoreと私。その3
●Rainbowの登場で、プレーヤーRitchie Blackmoreの個性が爆発したのは言うまでもないと思います。この時代の雑誌はどれもダイアナ妃報道の状態みたく、ファースト、セカンドアルバムは何かと寸評の的になっていたな。音的にも随分変わった。新しい世代のファンもついた。そして毎年来てるんかと感じさせるほどの来日攻撃。悲しい札幌での女子大生圧死事件も記憶から消えない。思考ギタリストのDP時代からギタリストRitchie Blackmore円熟期と感じております。DP時代には出来なかったようなスケールも出てきますし。とにかくメンバーには気をつかわず(辞めさせればいいだけやもんね)没頭したい気分が伝わってきます。みなさんも、ちょうど25〜30歳超えってそんな感じじゃなかったですか?プロとして年下のメンバーとやってたならワンマンとして見られても仕方ないかもしんないね。妙なトンガリ方してた覚えありませんこと?最近のインタビュー記事ではっきりしたのですが、同じ土俵の上でのメンバーといのはある意味では敵対視も止む終えないと思います、過去の自分達もそうでした。音楽性に始まり趣味思考も違いますし、それでいて貧乏デビューから一緒にいる仲間ですから飛び出すのも容易ではないでしょう。技術的にもバンド存続にも戦っていたのだと思います。RitchieがRainbow結成に向かっていったことは、そんな問題のひとつの解決法だったのでしょう。
私のバンド活動は相変わらずで・・・・たまぁ〜に他のバンドと懐かしいハードロックで活動したりとか自分のバンドではローカルライブの繰り返しでした。この頃から purpleや Rainbowのカヴァーではライブの活動も無くなるのがローカルらしいところで、とにかくステージの獲得にはジャンルを選べなくなってきました。必然的に「誰でも知ってるR&B」とかポップな曲をやるようになりRitchie関係はステージでも2,3曲に減ってきました。この健全なる高校生時代の思い出
矢沢永吉−−−キャロルで来岡。単発での集客力は未だ無かった時代で、1815ロックンロールバンド(内田裕也+たけだかずおのバンド:クリエーションね)と桑名まさひろ率いるバンド名忘れたグループとの合体コンサートで遭遇。開演前に会場前の喫茶店に行ったところ、みんないた・・・メンバーが(竹田かずおの)サイン貰えと言うので、くださ〜いと行った処が桑名の前。ガクラン下に着ていたTシャツに桑名のサイン。それを竹田のサインと威張る。矢沢さんは・・・まだまだ無名なのよ。(アンチ日本語ロックの時代ですから)
クイーン−−−3年生の時、キラークイーンがヒットしてラッキーにも来岡。夏休みの国語補修の帰りに県営体育館へ一人で行った。岡山以西ではコンサートが無かったので、九州方面より一挙ファンが押し寄せる。まずはそのファッションに驚いた・・私はもちろん学生服。外タレの大音響に初遭遇して驚いた。
フォーライフレコード−−−吉田たくろう、井上揚水らが設立。設立当時、新人の募集オーディションが非公式にありました。リーダーの兄貴が揚水推進派でして、彼を神と崇めるフォーク一辺倒ソロプレーヤーで、我々はバックバンドとして時々サポートしてました。その兄貴のコンサート兼オーディションステージが認められ上京する機会があったのです。お目に叶ったわけでして我々もバックバンドとしてパッケージにして貰う計画でした。しかし各親同士で話し合いの結果、猛反対に合いこの若人達の夢も消えました。なにせリーダー以外はすべて長男、家を出るとはまかりならん時代なのです。人生最初にして最後のメジャーチャンスは瞬間湯沸かし器でした。今から思えばグレなかった私たちはエライ! 自分の子供達には全てのチャンスを与えてやろうと思います。 その後、その兄貴は路線変更しカラオケ道場破り??ばっかりやってます。いきなりカラオケ選手権等のTVに出てたりして驚かしてくれました。こちらのオジ・オバちゃん連中には結構有名。●RAINBOWについても書かないといけませんね。最終としますが Blackmore's night出現も含めて。
私感です。
私は Ritchieのソロプロジェクトってのは、このRAINBOWから始まっていたのではないかと思います。理由としてロニーに始まってからというもの、やたら他のメンバーの評価や論議を読むようになりましたが、すべては Ritchieの注文や指示があってのことだろうし、最終的にも RitchieはOKの指示をしているはずと見ています。サウンド的にも大きく変わったファーストでしたが、DP時代にはそれなりにエンジニアにも敬意を表していただろうし、昔からの付き合い的?な部分も関係していただろうし、今回は「やるぞ〜」って気が伝わってきます。全部が「わしじゃ〜」ってな感じといえばお分かり頂けるでしょうか。(~_~;) スタートをそこに持っていくと忙しいばかりのメンバーチェンジやサウンドの変化も理解し易いのです。つまりロニー時代はブイブイ言わせたもののグラハム、ジョーといった時代ってのは「やはりバンドはメジャーにならないといけない感」が{Ritchie以外からもちあがって多少影響されたビジネス変化}−−を感じてしかたないのです。そのせいかメンバー内では5分の1(その2参照)に戻ろうとしていた Ritchieは他のメンバーに意見を求める機会も多くなったと想像します。仕事を出来ないものは去れ!、これは当然の事でしょう。 バンドをやってた私にはこう考えていくと十分すぎるほど理解できます。最終的には5分の1が理解できるメンバー、つまり第2期DP−これしか戻るところはなかったのです。84年にDP再結成で嬉しかったのは、何よりも事務所やレコード会社でしょう。Ritchieの本心はいつでも新しいサウンドを創造、出したかったのだと感じるのですが、一方で昔の曲を聞きたいオーディエンスや高圧的なオーガナイズの連中、かなりの部分で音楽家とは悲しい生き物です。
再結成パープルも終盤となれば、昔起こったことは繰り返され脱退となりました。Ritchieの脱退はいつもながら出発に繋がっていきますので安心でした。新生RAINBOW(孤高の・・・)ではロニー時代のインパクトを感じますし(音的にではなく上記の理由:Ritchie主導方)とにかくリラックスしているのが分かります。肩を張らない感じで悠々とやっているのが、単に円熟といった言葉だけでは済まされません。84年のDP再結成以来最高の瞬間でした。Candiceといった伴侶を手に入れてたち上げたB・Nightですが従来からのアイデアを、たとえ尻に引かれてようが飯作りに性を出しながらでも世間に何と言われようがそれがCandice!−−かたちとして完成させた今、これほど気持ちよく仕事が出来たことは病み付きになったと想像します。一方で更新契約へのサインで揉めたバンド−RAINBOW。この先は想像に任せますが、ビジネスを獲るようならRAINBOW、後世を悠々自由に吟遊詩人気取りであるならCandiceと−私は答えを持ってます。
たとえばあなたがGuitarを弾くなら想像してみてください、50過ぎてクイックなHRをやったとして本当に楽しいですか?それでツアーが出来ますか?プレー全体に入魂出来るでしょうか?Ritchieは昔から本当にファンを大切にしてきました。サウンド作りもそうでしょうし、ツアーでもそうでしょう、再結成時にも事務所の要望だけでなくファンの声も大いに貢献していたでしょう。今度はファンからの恩返しです。このまま自由にやらせてあげていい時代に来たと感じます。RAINBOWはどうなったよりB・Nightの次期アルバムは?が私の本心ですし、アンコールは Shadow of the moonもっかいやってくれ〜なのです。
Ritchie Blackmore様
Ritchie Blackmoreに出会って延べ27年、あなたほど弾いてくれているギタリストは他に類をみません。あなたほど弾きつづけてくれてるギタリストは居ません。少なくともあなたの音楽を聴いているとき、あなたの真似をしているとき、あなたを音を探しているとき、あなたの全てに関っているとき、非行予備軍の私は悪行に走らなかった。犯罪を起こさなかった。いつも幸せでした。幸せ感を感じる術を教えてくれた、それはRitchieあなたでした。いつも真剣で妥協の無さと裏にある誠意。これからも私は幸せでいれます。本当にありがとう。
Ritchie Blackmoreとの出会いのコーナーはこれで終了です。読んでくれて本当にありがとう。
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●作者の怠慢で一部の英語スペルがカタカナおよび半角等で記述されております。賢明な読者諸氏におかれましては、英文スペルに置き換えてお読みくださるようお願い申し上げます。 |
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ここが最後の行です。